2012-04-23
「六根清浄」
私がこの言葉を初めて耳にしたのは、高校三年生17歳の夏の富士登山の時でした。
頂上をめざして黙々と懸命に登っていると、
「六根清浄、六根清浄」
と、何処からともなく聞こえてくるその言葉が、当時は意味も分かりませんでしたが、何故か心地良く胸に沁み入り、とても心身爽快となったのを懐かしく思い出します。
それから20年後に、天川弁財天に参拝した際に、"六根清浄大祓"と云う祝詞が有る事を初めて知りました。読んでいくうちにその意味の深さに感動し、それからの私の人生に深く関わり、いつも私を救い導いてくれるものとなりました。
「六根清浄大祓」
(ろくこんしょうじょうのおおはらい)
天照皇太神の宣く人は 則天下の神物なり
(あまてらしますすめおおがみののたまわくひとは すなわちあめがしたのみたまものなり)
須掌静謐心は 則神明との本主たり
(すべからくしずまることをつかさどるこころは すなわちかみとかみとのもとのあるじたり)
莫令心神是故に
(わがたましいをいたましむることこのゆえに)
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を不見
(めにもろもろのふじょうをみて こころにもろもろのふじょうをみず)
耳に諸の不浄を聞て 心に諸の不浄を不聞
(みみにもろもろのふじょうをききて こころにもろもろのふじょうをきかず)
鼻に諸の不浄を嗅て 心に諸の不浄を不嗅
(はなにもろもろのふじょうをかぎて こころにもろもろのふじょうをかがず)
口に諸の不浄を言て 心に諸の不浄を不言
(くちにもろもろのふじょうをいいて こころにもろもろのふじょうをいわず)
身に諸の不浄を觸て 心に諸の不浄を不觸
(みにもろもろのふじょうをふれて こころにもろもろのふじょうをふれず)
意に諸の不浄を思いて 心に諸の不浄を不想
(こころにもろもろのふじょうをおもいて こころにもろもろのふじょうをおもわず)
此時に清潔よき偈あり 諸の法は影と像の如し
(このときにきよくいさぎよきことあり もろもろののりはかげとかたちのごとし)
清く淨れば假にも穢こと無し 説を取ば不可得
(きよくきよければかりにもけがるることなし ことをとらばうべからず)
皆花よりぞ木實とは生る 我身は則六根清浄なり
(みなはなよりぞこのみとはなる わがみはすなわちろくこんしょうじょうなり)
六根清浄なるが故に 五臓の神君安寧なり
(ろくこんしょうじょうなるがゆえに ごぞうのしんくんあんねいなり)
五臓の神君安寧なるが故に 天地の神と同根なり
(ごぞうのしんくんあんねいなるがゆえに てんちのかみとどうこんなり)
天地の神と同根なるが故に 萬物の霊と同體なり
(てんちのかみとどうこんなるがゆえに ばんぶつのれいとどうたいなり)
萬物の霊と同體なるが故に 為所無願而 不成就矣
(ばんぶつのれいとどうたいなるがゆえに なすところのねがいとして じょうじゅせずということなし)
無上霊寶神道加持
(むじょうれいほうしんどうかじ)
読んで字の如く、とても分かりやすい祝詞です。
人間は、本当に素晴らしい六感(目・耳・鼻・口・身・意)を持ってこの世に生まれて来ているのです。
それらを外界からの刺激によって翻弄される事なく、己の内面へと向け心を研ぎ澄ましてゆくのです。
研ぎ澄まされた心で内奥の魂を磨いていく事は、自分のみならず周囲の命も輝かせてゆくでしょう。
私がこの言葉を初めて耳にしたのは、高校三年生17歳の夏の富士登山の時でした。
頂上をめざして黙々と懸命に登っていると、
「六根清浄、六根清浄」
と、何処からともなく聞こえてくるその言葉が、当時は意味も分かりませんでしたが、何故か心地良く胸に沁み入り、とても心身爽快となったのを懐かしく思い出します。
それから20年後に、天川弁財天に参拝した際に、"六根清浄大祓"と云う祝詞が有る事を初めて知りました。読んでいくうちにその意味の深さに感動し、それからの私の人生に深く関わり、いつも私を救い導いてくれるものとなりました。
「六根清浄大祓」
(ろくこんしょうじょうのおおはらい)
天照皇太神の宣く人は 則天下の神物なり
(あまてらしますすめおおがみののたまわくひとは すなわちあめがしたのみたまものなり)
須掌静謐心は 則神明との本主たり
(すべからくしずまることをつかさどるこころは すなわちかみとかみとのもとのあるじたり)
莫令心神是故に
(わがたましいをいたましむることこのゆえに)
目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を不見
(めにもろもろのふじょうをみて こころにもろもろのふじょうをみず)
耳に諸の不浄を聞て 心に諸の不浄を不聞
(みみにもろもろのふじょうをききて こころにもろもろのふじょうをきかず)
鼻に諸の不浄を嗅て 心に諸の不浄を不嗅
(はなにもろもろのふじょうをかぎて こころにもろもろのふじょうをかがず)
口に諸の不浄を言て 心に諸の不浄を不言
(くちにもろもろのふじょうをいいて こころにもろもろのふじょうをいわず)
身に諸の不浄を觸て 心に諸の不浄を不觸
(みにもろもろのふじょうをふれて こころにもろもろのふじょうをふれず)
意に諸の不浄を思いて 心に諸の不浄を不想
(こころにもろもろのふじょうをおもいて こころにもろもろのふじょうをおもわず)
此時に清潔よき偈あり 諸の法は影と像の如し
(このときにきよくいさぎよきことあり もろもろののりはかげとかたちのごとし)
清く淨れば假にも穢こと無し 説を取ば不可得
(きよくきよければかりにもけがるることなし ことをとらばうべからず)
皆花よりぞ木實とは生る 我身は則六根清浄なり
(みなはなよりぞこのみとはなる わがみはすなわちろくこんしょうじょうなり)
六根清浄なるが故に 五臓の神君安寧なり
(ろくこんしょうじょうなるがゆえに ごぞうのしんくんあんねいなり)
五臓の神君安寧なるが故に 天地の神と同根なり
(ごぞうのしんくんあんねいなるがゆえに てんちのかみとどうこんなり)
天地の神と同根なるが故に 萬物の霊と同體なり
(てんちのかみとどうこんなるがゆえに ばんぶつのれいとどうたいなり)
萬物の霊と同體なるが故に 為所無願而 不成就矣
(ばんぶつのれいとどうたいなるがゆえに なすところのねがいとして じょうじゅせずということなし)
無上霊寶神道加持
(むじょうれいほうしんどうかじ)
読んで字の如く、とても分かりやすい祝詞です。
人間は、本当に素晴らしい六感(目・耳・鼻・口・身・意)を持ってこの世に生まれて来ているのです。
それらを外界からの刺激によって翻弄される事なく、己の内面へと向け心を研ぎ澄ましてゆくのです。
研ぎ澄まされた心で内奥の魂を磨いていく事は、自分のみならず周囲の命も輝かせてゆくでしょう。
スポンサーサイト